インタビュー《バリトン歌手 藤村匡人/きたまち茶論コンサート》
オーケストラを愛するバリトン歌手、藤村匡人さん。11月17日(日)きたまち茶論コンサートではブラームスと山田耕筰の歌曲を演奏されます。リート歌手への道はどのように開けたのか、音楽観は?オフはどのように過ごされているか、などお話くださいました。
音楽の始まり
歌手としてのキャリアをスタートしたきっかけは何でしたか?
幼稚園の頃から数年間習っていたエレクトーンです。当時、団地に住んでいて、団地内の先生に習っていました。ところが、小学校2年生か3年生あたりで、もう練習が嫌で嫌で。父親に「どうすんねん、やる気ないならやめてしまえ!」と言われ、売り言葉に買い言葉で「じゃあ、やめたる!」って辞めちゃいました。尼崎に住んでいたのですが、ルナホールで発表会があり、「蛍の光」を弾いたのがドーナツ盤のレコードとして残っています。その後は、音楽の代わりに野球に打ち込んでいました。
野球少年だったのですね。
そうです。中学でも野球部に入っていましたが、ある日突然オーケストラにはまってしまいました。きっかけは音楽のテストです。
オーケストラへの目覚め
どんなきっかけでしたか?
中学2年生のとき、音楽のテストで鑑賞の時間に聴いた曲を当てるクイズのような問題が出るということで、変声期で歌では点数が稼げないからペーパーで頑張ろうと思いました。教科書を見ればいいんですが、わざわざこの曲を知ろうと思って親にねだって1,300円くらいの廉価版LPを買いに行きました。A面がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲で、それもすごく良かったんですけど、B面にあったチャイコフスキーのコンチェルトにはまってしまい、何度も何度も繰り返し聴き続けました。そこからオーケストラに興味を持ち始めたんです。
吹奏楽部には入らなかったのですか?
うらやましくていつも部室をのぞいていました。ただ、もう2年生になっているし、遅れているような気がして、しかも何か楽器が吹けるわけでもないので入らなかった。今から思えば全然遅くはないのにね。
中学では聴く専門だったのですね。
中3になったら声変わりが進んで声が出るようになってきました。それで歌の試験も頑張ろうと思ったんです。試験曲は「帰れソレントへ」です。当時、テレビでパスタのトマトソースか何かのコマーシャルがあって、イタリア人らしきおじさんがコック帽かぶって「オー・ソレ・ミオ」を歌っていた。これはもしや「帰れソレントへ」と同じジャンルじゃないか!と結びつけて、試験で真似して歌ったんです。そうしたら音楽の先生がすごく気に入ってくれて、卒業アルバムにこのことを書いてくれました。歌の道に進んだら?みたいな感じで。でもその時はそれほど歌には興味なかったです。
高校生活
高校生活について教えてください。
普通科の高校に行ってサッカー部でした。クラシック音楽は相変わらず好きでしたね。いっぱい聴きたくてもレコードは高価でそんなには買えないので、19時20分に始まるFMクラシックアワーを聴くために猛ダッシュで帰るのが日課でした。
あと、合唱部の助っ人をしていました。男声パートが足りないので頼まれて文化祭などで歌っていました。これをやっていくうちに、どんどん音楽にはまっていって、将来音楽の道に進めないかと考えるようになりました。楽器はできないけれど指揮者だったらなんとかなるだろうと、これ甘いでしょう? 音楽の先生に相談したところ、「指揮は無理だけど声は持っているから、歌だったらなんとかなるんじゃない?」と言われ、高校1年の1月か2月ぐらいに「あ、そっか、自分は歌なのか」と先生のおっしゃることを真に受けて試験の準備を始めました。
大学生活
大阪音楽大学に進学されましたね。
はい。大阪音大の4年間は声楽科でした。2年生の試験ではヴォルフのメーリケ歌曲集から「鼓手(Der Tambour)」なんかを持っていったりしていました。フィッシャー=ディースカウを聴いて面白い曲だなあと感じて選んだんですが、先生には「ヴォルフもいいけど、まずはシンプルにシューベルトからやろうか?」と言われたりしました。大学院ではオペラ科に進みました。
卒業後はどうされていましたか?
卒業後は社会人を4年やりました。私立の高校の非常勤や大阪音大の助手をしつつ、梅田センタービルのシーフードレストランで歌うウェイターをしていました。あと、神戸市混声合唱団の初期のメンバーで立ち上げに携わりました。
留学のきっかけ
留学はそのあとですね。
はい。当時、兵庫県には新進海外芸術家研修という奨学金制度があり、オーディションを受けたら何とか引っかかりまして、1993年にそれをきっかけに向こうに行きました。
イタリアではなくドイツ語圏を選ばれたのは?
ドイツ音楽が好きだったからです。オーケストラでもとりわけドイツ音楽が好きでしたし、学部生の時からドイツ歌曲にすごく興味があったからですね。とはいえ、イタリアかドイツ語圏に行くかは最後まで迷っていました。
決めたきっかけは?
偶然、ワルター・ムーア教授が日本に来られているという情報をもらったので、レッスンに行ったんです。そうしたら教授がウィーン国立音楽大学に受け入れるよう取り計らってくれました。奨学金をもらえるようサインもしてくれて。
留学後の転機
導かれるようにリート歌手への道を進まれましたね。留学後に転機となる出来事はありましたか?
ウィーン国立音大の夏休みが3か月あって、せっかくだから講習会をいくつか受けに行きました。そのうちの一つが、ザルツブルクでの白井光子さんとハルトムート・ヘルさんのクラスでした。会場のモーツァルテウムに一人でポツンと参加して、本来ならピアニストとデュオで授業を受けるものなのですが、当時は決まったピアニストがいるわけでもなかったので単独で行きました。そうしたら日本人の女性ピアニストと組むように言われ、オーディションを受けて受講資格をもらえました。
大変有意義な2週間を過ごしました。それがすごく楽しく有意義だったので、ウィーンも良かったんですけど、なんかちょっとクラスを変わりたいなと思っちゃったんですよ。
カールスルーエへの道
そこからカールスルーエに?
ハルトムート・ヘルさんに「カールスルーエに行きたいんです」と言ったところ、「何人も待っているから今すぐはちょっと無理」と言われたんです。ところがラッキーなことに、夏休み明けの10月からザルツブルクのモーツァルテウムにお二人(白井さんとヘルさん)が客員教授として来ることになったんです。そこでなら何とかなるよ、ということだったので即決で変わりました。数年してモーツアルテウムからカールスルーエにようやく移ることができました。
ヨーロッパと日本の音楽教育の違い
ヨーロッパの音楽大学と日本の教育の違いなどについてお話いただけますか?
ウィーン国立音大では、ワルター・ムーア教授のレッスンの前に2人のコレペティの先生について下地を作ってもらうんです。レッスンの前に音取りをしていくのが当たり前で、コレペティの先生のところに行くと、あまりに僕がサクサク進むのでソルフェージュ力が高いと思われた。それで、その場で和音を弾かれて「音を当てて」と言われ、「できません!」と言うと、「聴こえた音を下から順番に口ずさんでくれたらいい」と言われたので、聴こえた音を声に出したら「OK!」でした。それと発音の授業。ロシア語、フランス語、ドイツ語のクラスがあって、ドイツ語は週1回の個人授業で、ロシア語とフランス語はグループレッスンでした。とても充実した授業内容でした。
留学中の音楽観の変化
留学中に自身の音楽観や技術が大きく変わった瞬間はありましたか?
いくつかありますが、まずはやはり「生き生きとした演奏をできるように」ということです。月並みな言葉かもしれないけれど、そういうことをお二人(白井さんとヘルさん)は口酸っぱくおっしゃっていました。つまり「体験すること。演奏者が体験すること。常に体験しながら演奏を繰り広げていく」。言葉にすると難しいのだけどね。チェリビダッケが言っているんだけど「音楽には解釈はない」と。白井光子さんは「100回演奏したら100回とも違う、1,000回やったとして1回たりとも同じ演奏はない」と常々おっしゃっていた。それらを突き詰めると「生き生きと演奏すること」につながりますよね。その時に何かこだわりがあるとだめなんです。いつも新しく――“immer neu”――それが大きかったですね。
ピアニストとのコラボレーション
ピアニストとのコラボレーションでもそのあたりのことは大切にされていますか?
同じ空気を吸っているということだよね。その場で同じ空気を吸って、一緒に音楽を作り上げていく。
コンサートの聴きどころ
11月17日のきたまち茶論コンサートの聴きどころは?
ブラームスと山田耕筰、二人とも私が大事にし、かつ愛している作曲家です。山田耕筰は日本の西洋音楽のパイオニアで、ドイツにも留学していたでしょ? 西洋音楽の黎明期において、日本の音の世界と西洋の音楽の世界の折衷点をいい具合に作り上げた人だと思います。また、ブラームスはリートの作曲者としてちょっと異質と僕は思うんです。
それはなぜですか?
例えばブラームスの歌曲「ひばりの歌」などは、チェロなどの楽器で演奏されたりします。言葉なしで通用するような音楽の作りだと思うんです。シューマンなんかだと言葉が必要だけれども、ブラームスの歌曲はフレーズが実に音楽的、純音楽的に感じます。だからそういう意味でドイツ語がわからなくてもすごく聴きやすいのではないでしょうか。
今後のプロジェクト
これから挑戦してみたい曲やプロジェクトはありますか?
今年はリート歌手の定番「美しき水車小屋の娘」をやりましたが、来年のリサイタルでは20世紀ばかりのプログラムをやります。初めて聴く曲も多いかもしれませんし、私も初めてやるものもあり、それは大変楽しみですね。
オフについて
オフのときはどのように過ごされていますか?
娘とのキャッチボールです。娘が今4年生なのですが、週末の野球クラブに入っていまして、もう来年にはやめるって言っていますけど、休みの日はその送り迎えや試合を見に行ったり、キャッチボールに付き合ったりしています。
野球に始まり、野球に終わりました。オーケストラを愛するバリトン歌手、藤村匡人さん。その音楽人生を駆け足でお話しいただきました。まだまだお聞きしたいことはたくさんありますが、まずはコンサートでその音楽をお楽しみください。「immer neu」、常に新しく響く藤村さんの音楽をぜひ聴きにいらしてください。
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