インタビュー《コラボレイティブ・ピアニスト益子明美/デュオ・リサイタル 前編》

コラボレイティブ・ピアニスト※としてヨーロッパやアメリカで活動している益子明美。元ベルリンフィル首席チェロ奏者ヴォルフガング・ベッチャー氏、元ベルリンフィル首席フルート奏者カールハインツ・ツェラー氏など巨匠たちから厚い信頼を寄せられてきた。今秋の帰国リサイタルは若手バイオリニスト、ヴァシュカウ 考志 ローレンスとの共演、はじめての親子共演でもある。

※「コラボレイティブ・ピアニスト」とはアンサンブル、共演を専門とするピアニスト

  • ピアノとの出会い
  • ニューイングランド音楽院へ
  • ザンバーラ先生のアシスタントを務める
亡きヴォルフガング・ベッチャー氏と益子明美 

後編はこちら

十歳の時に母がピアノを注文して、突然家にピアノが

ピアノとの出会いをおしえてください

ピアノを始めたのは結構遅いです。十歳の時に母が突然ピアノを買ったんです。母は自分がピアノやりたかったのだけど、時代もあってできなかった。それで、せっかく女の子ができたから、結婚してからもちょっと家でピアノのお稽古なんかして、好きなことができれば楽しいんじゃないの?って。

音大に行く人の中では遅めのスタートだったのですね。

ピアノ科の学生がピアノを始めるのが大抵は3,4歳。そんな中で、もう11歳になろうという時だったから一番遅い。だけど、その代わりにピアノのお稽古が嫌になった時期が全くないです。

ピアノの先生との出会いは?

家の前にピアノの先生がいらして、習いに行きました。私は初見(楽譜を見ていきなり弾くこと)が得意だったので練習などまったくせずバイエル上巻を初見であげて、下巻も2日であげた。そのしっぺ返しが後に来るね。全く基礎が出来てない。センスだけで弾いていた。中学生になって魚崎駅の近くの先生に替わったんです。その先生はとても厳しく 、あまりに辛くてレッスンの帰り楽譜を溝に投げたりしたこともあります。

大阪音楽大学のピアノ科に進まれますね。

音楽は好きでした。音楽大学に行ったら音楽を思う存分できると思って、それで入った。そうしたら何て言うのか、強制収容所みたいな非音楽的な試験が待っていた。試験官は後ろの長いすに座っていて姿が見えない。そしてストップウォッチで計っていて、間違えたりなんかすると一斉に書き始めたりする鉛筆の音が聴こえる。それにソナタは全楽章ではなく、一楽章しか聴いてくれない。なんかこれってさ、何のための音楽なんやと思いながら、なんかおかしい、こういうことをしたかったわけではないのに、と思いながら弾いていた。

そうすると音大では好きな音楽を楽しむことはなかった?

小中とブラバンをやっていたので管弦専攻の学生の校舎に入り浸っていました。それで金管や木管の人の伴奏をよくしていました。一年の時から卒業試験に出させてもらったし、厚生年金会館でも弾かせてもらいました。先輩たちから結構可愛がってもらえるし、すごく楽しかったね。

同じ音大でもソロとアンサンブルでは随分様子が違いますね。

ソロは当時センスだけで弾いたのです。そうするともう本当に誰も認めてくれない。アンサンブルは楽しく弾けたのに、ソロになると強制収容所のような試験のトラウマがなかなか抜けなかったです。

トーマス・フォルトマンの作品 マンリコ(vl) 益子明美(pf) スイスのバーゼルでレコーディング

西(ヨーロッパ)にばかり目を向けていたけど
東にも大きな大陸(アメリカ大陸)が!

音大卒業後、アメリカに渡られますね。

最初はヨーロッパを考えていたのですが、なぜかピンと来なくて。そうこうするうちにアメリカ在住の知り合いのピアニストが帰国したときにたまたま会って、「アメリカに来たらいいじゃない?」と言われた。それまで西(ヨーロッパ)にばかり目を向けていたけど東にも大きな大陸(アメリカ大陸)があった!と。

アメリカといっても広いですよね。

いろいろリサーチしました。動くと、情報って入ってくるじゃないですか。 当時USC (University of Southern California )南カリフォルニア大学に有名なピアノの先生がおられると分かった。そこでテープを送ったの。怖いもの知らずというか、私は負けん気だけは強いから、もう果敢に乗り込んでいくわけ。そうしたら、OKが出たの。そこがアメリカなんだと思うのだけど、なんかこう出来上がった人ではなくて、何か持っているような人っていうのを取ってくれるよね。

それで、カリフォルニアに飛んだ?

それが、周囲の人が「女の子が一人で暮らすには治安が悪いよ」という。東海岸は有名校がいっぱいある代わりに物価も高いし。これはどうもロサンゼルスは難しいかなと思っていたら、まるで呼ばれていたかのようにボストンの情報がどんどん入ってきた

インターネットの無い時代ですから、海外情報の取り方も今とは違い格段に苦労されたかと思います。

カリフォルニアから一転、ボストンへ

ボストンの情報に囲まれた結果、呼ばれるかのようにニュ-イングランド音楽院に行くことになり、1983年7月からボストンでの暮らしがスタートしました。ハーバード大学のサマーコースで英語を取り、住まいはカークランドハウスという学生寮です。団欒室にすごく素敵なスタインウェイ・ピアノが置いてあり、午前は語学学校に通い、午後はそこで練習しました。環境は恵まれていましたね。寮長さんに「いきなりコンサートする?」と言われて、「じゃ、やります」というと全部アレンジしてくれたり。

コラボレイティブ・ピアニストとして活動する礎を築いた?

2年でピアノ・ソロ・パフォーマンスを修了後、ボストンで出会った益子さんと結婚することになりました。結婚準備のために8か月日本に戻り、再びボストンに戻りセカンド・マスターという伴奏科と室内楽のクラスを取りました。その時、大阪音大時代に金管木管のピアノを弾いていたことが本当に役に立ちました。あの曲も、この曲も知ってる!て。

管楽器のほかに、歌はどうだったのですか?

2年半にわたる歌手のコーチのアシスタントが今に生きている

そう。あと歌はね、伴奏科、指揮科、コーラスの指揮科は歌手たちの伴奏をしないといけない。1人ずつの先生に生徒が8人とか10人とかついていてそれに引き当てられるわけ。週5時間はただ働きだけど、それ以上弾いたらお金もらえるの。ちょうどそのころセントルイスから移ってきたミスター、ザンバーラという人の元でプライベートでも2年半アシスタントすることになり朝から晩まで弾いていた。何人ものピアニストがお試しで弾いたのだけど、みんな切られて、私がたまたま気に入られたの。たぶん日本人だったのもあると思う。辛抱強いから。ワーグナーのスコアとか投げらたりした。

ザンバーラ先生は歌手でいらしたんですか?

ザンバーラ先生は、歌い手ではなくすごく有名な歌手を育てる人。連れてきた生徒たちは大変優秀だったし、METやウィーン国立歌劇場の歌手たちも来ていた。そこで2年半、朝から晩までいっしょに過ごしたのだけど、学生にもプロ歌手にも言うことは基本的には同じなの。

卵からプロまで、あらゆる歌手を間近で聴いておられたのですね。

そう。そうしたらある日突然耳が肥えていた。「こんな歌い方してたら、絶対あかんわ」というのが聴こえるようになっていた。あの2年半の経験がなければ、今歌の人と関わることにはなっていないと思う。

後半へと続く

ヴァシュカウ 考志 ローレンス & 益子明美 デュオリサイタル

日程|2023年10月12日(木)
場所|兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院小ホール(西宮市) 
時間|開演19時 (開場18時半)
料金|一般 3000円 高校生以下 2000円
 *未就学児入場不可
後援|西宮市、神戸新聞、大阪音楽大学同窓会《幸楽会》

《プログラム》

エルネスト・ショーソン  詩曲作品25  
Ernest Chausson    Poème Op.25  

フランシス・プーランク   ヴァイオリンとピアノの為のソナタ
Francis Poulenc      Sonata for violin & piano, FP 119

プロコフィエフ   ヴァイオリンとピアノの為のソナタ 第1番 ヘ短調 作品80
Sergei Prokofiev    Sonata for violin & piano, No.1 f-moll Op.80